猛然と走るパワー/「天保十二年のシェイクスピア」

「すごい舞台を観ちゃったなあ!」
終わって最初に自分の頭に自然と浮かんだのは、そんなフレーズだった。


井上ひさしシェークスピアの全37作品を巧みに織り込んで、設定を日本の江戸時代に置き換えた舞台、それが「天保十二年のシェイクスピア」。初演が1974年。さらに、今回は上演時間が4時間という長丁場になるというウワサ。そんな古い作品を、そんな長い時間観劇していて、飽きやしないだろうか。観るまえにちょっとだけ不安だったのも事実。でも、それは杞憂だった。


とにかく、舞台に引き込まれっぱなし。息つく暇もなし、という感じ。シリアスと笑いと猥雑さが頻繁に交錯するが、それがごつごつとぶつかり合うのではなく、日常生活のように、とても自然に流れていく。井上ひさしのホンの面白さ、自分の知っている俳優さんが常に誰かは舞台上に出ている安心感、そして役者に会場全体を縦横無尽に走らせて盛り上げる蜷川演出。それらの相乗効果があって、存分に楽しめたのだろう。正直言うと、さすがに2幕の後半だけはちょっとダレたが、最後はまた大きく盛り上がって、やや放心状態のままカーテンコールへ。もう拍手、拍手!である。


主役の三世次を演じた唐沢寿明。口先ひとつで巧みに世を渡り成りあがっていく役だが、最後は地獄へ突き落とされる。一幕こそ多くの出番はなかったが、それでも膨大なセリフ。二幕は正真正銘の主演である。せむしの役なので常に猫背の状態、足は引きずりながら歩く。せっかくの色男も台無しである。
さらに度肝を抜かれたのが、女郎とのベッドシーン。あまりのインパクトにしばらく頭が真っ白になっていたが、あとあと考えると三世次の性格を表現するためであり、その後の展開に必然性をもたせる熱演であった。とにかく、人間のドロドロした部分を演じ切って、みごとというほかない。若いころはアイドル的な売り出しかたをされていたが、いまさらながら日本を代表する役者であるといえる。


表の主役は唐沢だが、裏の主役は語り部たる木場勝己であろう。ほぼ全編出づっぱり。この人、今回の舞台で初めて知ったが、存在感のメリハリがはっきりしていてすごかった。長いセリフで進行をつとめたかと思えば、セリフもなく舞台上に佇んでいることがあった。このとき、姿ははっきり見えているのにまったく存在を消していて、みごとだった。


その他の出演者たちについては書き出すとほんとにキリがないので、簡潔に記す。

  • 藤原竜也:生タツは初めて。なかなか出番がこないし、あれもう死んじゃうの!?っていう感じで消える。相変わらず上手いが、どこまでも爽やかさが残る。ドロドロさはこれから身につけるところか。
  • 篠原涼子:さすが(?)、元小室ファミリー、歌はなかなか聞かせる。演技についてはやや不満が残るが、二役や殺陣は立派にこなしていた。
  • 高橋恵子夏木マリ:前者は悪役の演技もさることながら、とにかくきれい。後者は貫禄あり、色気あり。さすが女優。
  • 西岡徳馬勝村政信:前者は三役でかなり見ごたえあり。後者は最期に向けて壊れていく様が熟練の中堅技。
  • (番外)グレート義太夫:百姓軍団のなかに姿を見つけたとき、びっくり。なみいる役者陣のなかでは、演技がうまいとは思えなかったが、これまでも蜷川作品の舞台にいくつか出ているらしい。


この作品では、今回の舞台のためにだと思うが、井上ひさしの詞に宇崎竜童の音楽が15曲ついていて、ちょっとミュージカルっぽい仕上がりの部分もある。その井上の詞というのが言葉あそびをふんだんに取り入れたものであり、曲をつけるというのはなかなか大変だったのではないかと思うのだが、パンフレットを読むと「井上ひさしさんの書かれた歌詞は、やはり独特のテンポがあります。そのテンポに導かれて、次々とメロディが生まれていきました」とある。才能があるもの同士となると、超越した何かでつながっているのかもしれない。舞台の最初と最後に流れる「もしもシェイクスピアがいなかったら」は、舞台が終わってもしばらく耳に残り続けていた。


井上ひさしは蜷川よりひとつ年上で御年71歳。今回書き下ろしたものではないにせよ、いまの時代にあうように書き直すのは、かなり大変な作業だったに違いない。しかし、みごとな作品に仕上がっていた。こういっちゃなんだが、たいしたものである。
自分はシェイクスピア作品をほとんど知らない。なので、どこがどういうパロディなのかはほぼわからなかった。わかったのは、”To be, or not to be”のあたりと、ロミオとジュリエットくらい。しかし、わからなくても充分に楽しめる。
今回台本を書き直すにあたって、蜷川に宛てた数通の手紙がパンフレットに載っていたが、これが爆笑もの。台本が遅れた言い訳のオンパレードである。しかも、その言い訳が前時代的というか、むかしながらというのか、そんなことを本当に手紙に書くのかと、ちょっと感動した。そもそも、7月4日に「直しは今夜中に終ります。」と書いているのに、7月20日にいたっても「ただ続行あるのみ、です。」と綴られている。この人の人生、ずっとこんなんだったのだろう。しかし、できあがった作品が面白いのだから、いつまでも書き続けられるのだ。


御年70歳の蜷川幸雄には、ただただそのパワーに舌を巻くばかり。この世代で名の知れた演出家というのは、寡聞にして知らない。これだけのメンバーを統率するだけでも大変だろうに、いつも通り台本の完成が遅れる井上ひさしとの戦いもあっただろう。そしてできあがった舞台は、それは感動モノなのである。
ちなみに、蜷川が今年演出した作品はこれだけではない。シアターコクーンだけでも4作品。それ以外に藤原竜也と「近代能楽集」をやり(ニューヨーク公演も)、歌舞伎座でも「十二夜」を演出し、まさに走り続けている。


パンフレットは出演者のコメントがたくさん載っていて面白かったが、それ以外も充実。というより、それ以外の方が充実している。いちばん良かった記事は、稽古場見学記「祝祭空間へのカウンター」。この舞台について、観客が無意識に植え付けられていた意識は、蜷川演出によって作り出されていた、ということがよくわかる秀逸な解説である。
それともう一つ、蜷川と松任谷由実との30年ぶりの対談が面白い。演出家とシンガーソングライターという異なるジャンルながら、クリエイターであり続けるための苦労を語り合っている。いろいろ考えさせられることが多かったのだが、そのなかで蜷川が語っていたこのくだりが特に印象的だった。やや長くなるが、引用する。

年間全部、僕の演出した舞台を観てくれて、初めて、二〇〇五年なら二〇〇五年の僕なんですって思うんだ。そういうものをつくり続ける精神力とか、身体のコンディションを維持していくのは難しいんだけど。でもたまたまここ二年くらいね、頭と肉体が重なってて、いい状態になっているんです。
それまでは、自分ではスランプでバラバラだった。それが今、なんでこんなふうにふっ飛ばしているかというとね、こんなふうに、心と身体が重なることって一生のうちにめったにないことだから。波が来た!って感じでやってる。

70歳になっても失わない向上心。そしてチャンスとみるや、猛然と走るパワー。自分もそんな状態でいれたらいいな、と思う。蜷川ほどパワフルでないにせよ。