そもそも、これは愛なのか?/「容疑者の献身」東野圭吾


言わずとしれた、第134回直木賞受賞作。ふだん、芥川賞直木賞の受賞作を読んでみるなどしたことがないのだが、それなのに今回この本を手に取ってみようと思ったのは、友人のとある感想がきっかけだった。


理系でもてない男の悲哀が描き尽くされた作品だ。わかってもらえなくてもいい。自分は、こんなにあなたのことが好きなのだ・・・。石神が想いを寄せる靖子に対する自己満足的な行動には、なにかと共感してしまう部分があった。自分にもそういう時代があったなあ、と。


大学助教授である物理学者・湯川と、高校数学教師・石神の関係は、理数系で頭がいい人同士の関係ってこんなものかもしれないと思わせる。このあたりの心理描写が上手いのは、作者が理系出身であることもあるのだろう。東野圭吾は、工学部電気工学科卒業なのだ。


湯川と草薙が友達というのが、いまいちしっくりこない。これで本当に友達なのだろうか。ふたりのエピソードがあまり盛り込まれていないからのように思えたが、実はこの本の読了後、この登場人物たちは他の作品でも出ていることを知る。


石神・湯川・草薙の出身大学名が「帝都大学」という名前は、とてもキッチュだ。東京大学を連想させたいのだろうが、もう少しなにか他の名前はなかったのだろうか。


靖子に対しては、あまり印象がない。ストーリーを形作るには必要な人物であるが、こんな人いるんだろうなあと感じるだけで、特筆すべきこともない。


ところどころに現れる数学・物理学の話が、哲学的ではなく、身の丈にあったレベルでとても良かった。ざっと挙げてみる。

  • 石神が生徒に対して微分積分の説明をするのにオートレースを例えてするところ。
  • 生徒から「なぜ数学を勉強する必要があるのか」と問われて、答えられる先生がいないのだろう、と想像しているところ。
  • 試験で、幾何の問題に見せかけて、じつは関数の問題を出題し、数学の本質を知らずマニュアルに基づいて解くことに慣れている生徒を否定するところ。
  • 湯川が学生に対して、物性論ではなく素粒子論で問題を解いてほしかった、と問いかけるところ。


読後感は爽快。かといって、何か残るわけでもない。そもそもミステリーとは、娯楽作品の色合いが強いものだと思うが、そういう作品が直木賞になることは、ちょっと不思議な気がする。もっと人間模様が描きだされているとか、そういう文学色が強いものかと考えていたからだ。


上述した友人のこの本に対する感想は、「話が現実的と思えない」とのこと。ところが、自分はそうは思わなかった。いや、「こんな人いるかもしれないな」と、かえってリアルにさえ感じた。もちろん、最後に明かされる驚愕の真実を肯定するわけでもないが。


あらすじを知らずに読み始めたが、それまでタイトルの「容疑者\large x」とはなんのことだろうと思っていた。それが、読み出して少したったところで疑問氷解。これは容疑者である数学教師のことを、方程式で頻繁に用いられる\large xになぞらえていたのか。とても上手い表現だ。となると、「\large x」は小文字でなければならない。アマゾンとかでは「容疑者Xの献身」と大文字表記されているが、ふつう方程式を解くのに大文字は使わない。だいたい発行元の文春ですら大文字になっているとは、いったいどういうことだ。

容疑者Xの献身


オール讀物に連載時のタイトルは「容疑者\large x」。しかし、「献身」をつけた方が、作品全体により迫力が出る。2003年6月から2005年1月まで連載されていたとかで、つまりは1年半かけて書かれている。もちろん、準備を含めればもっとかかっているのだろう。自分は2日くらいで一気に読んでしまったが、作家がそれだけ労力をかけて書いているものを、こんなにあっさり読み切ってしまっていいのかと、ちょっとだけ後ろめたい。娯楽小説とは、こうやって消費されていく宿命にあるといえばそれまでだが。


本の帯にはこんなあおり文句。

男がどこまで深く女を愛せるのか。どれほど大きな犠牲を払えるのか───。

読み終わって一番思ったこと。愛ってなんだろう。愛の深さってなんだろう。そもそも、これは愛なんだろうか。


いや、これは愛とは違うものだ、と直感では思う。自分がふだん漠然と考えている愛とはほど遠い。相手に想いが伝えられなければ、愛ではない。愛とは双方向性をもつはずだ。


いや待て。石神の想いは靖子に届いたのではないか。だったら、これは愛なんだろうか。愛とはなんなんだ。


ちょっと考えてみようと思う。


容疑者Xの献身

容疑者Xの献身